「コッツェブーやイフラントの戯曲は、モティーフがじつに豊かなので、すべてが使いつくされてしまうまでには、ずい分長いこと摘み取らねばならないだろう」p158
「(大部分の若い詩人に)欠けているものは、客観的なものの中に素材を見出すことができない。自分に似た素材、自分の主観に適した素材を、見つけだすのが関の山だ。しかし、詩的であれば、素材それ自体のために、たとえ主観に反していようと、その素材をとにかく手がけてみようなどとは毛頭考えないありさまだ」p158
(エッカーマン著/山下肇訳『ゲーテとの対話(上)』岩波文庫より)
これは既存作品のアイディアを拝借するときの心得のようなものです。
要するに、昔から伝わっている由緒正しい題材を使い古されたものだと敬遠しないで書いてみましょう、ということだと思います。作品においても人生においても経験の浅い若い人に欠けた素質らしいです。
「自分に似た素材」「自分の主観に適した素材」。これは要するに自分が書きやすいだけの趣味に偏った題材を探し求めていると、一見オリジナルに近道のようですが、結果的には何かの二番煎じのような作品しか出来上がらず、むしろ名作・ビッグネームの作品を臆せず扱うと、それは自分の作品の資本になるということです。
小説の条件としてまずは、正常な言語で書かれていること。つまり日本語のレベルも勿論問われる。しかし、ライトノベルに関しては従来の小説と作品評価の条件が違う。そのことについては東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)を参照。
そして、小説の主要な要素は言語・叙述・構成の三つだと思われる。プロットは必ずしも必要ない。つまり「物語ること」が小説の役割ではないとも採れる。ボルヘスの『伝奇集』やジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』、レムの『完全な真空』といった前衛小説はその代表だろう。
物語は必須事項ではない。「小説とは言語で書かれた芸術作品」とひとまず定義する。
前回は作品内の仕掛けを読み解くことを話した。こうした細かい仕掛けを読み解く力が着くと、面白い/つまらないの二面的な評価から一旦抜け出て、客観的な基準を持てる。
よく誤解されるけれども、これは論語の「これを学ぶものはこれを好むものに然ず、これを好むものはこれを楽しむものに然ず」と矛盾していない。
そして、これを審美的に無意識で出来るのが一番作品を楽しめる。なのでここでは、作品の脈絡と背景を気にせずに作品を読んで欲しい。既に作品は読者の手に渡った時点で解釈は読者に委ねられているのだから。
そして、読み解く楽しさを孕む作品は再読に値する。優れた作品は一冊の本に喩えられる。最初は難しくて当たり前だから気にしなくていい、繰り返し繙こう。難しい本とは解釈が多様である。
読み解く技術を知ることにしたならば、まずは理論を知るとよい。自分のなかで曖昧模糊としたものが既に先人の手で開拓されたものと知るだろう。
そしてそれから、なるべくならばその手法を具体的に作品と照らし合わせて読むことだ。これは作品制作へと役立てられる。つまり、読む側の立場をよく理解すること。これは読者を想定するだけでなく、作品に客観性を持たせ、自分の作品がより洗練される。
そして最大の利点は作中へトリックを仕掛けられることだ。間テクスト性、開かれた終り、メタフィクション、異化、反復……こうした要素が作品を際立たせる。
以上が、良質な作品に触れることで私の得た知識である。私があくまで本質的に書き手ではないことを断っておきたい。