神話のモデルをプロットに採用した作品が好きです。私はプロットのリズムが悪い作品が好きではありません。大体、観ていてシナリオが印象に残る作品は、神話をプロットに組み込む仕方を上手く理解していると思います。
シェイクスピアの『ハムレット』やゲーテの『ファウスト』は確かにシンプルなプロットですが、それはあくまで「単一性」と言えるように、それ以上無駄なプロットを組み込むと芸術としての純度が下がるからそうなっているのではないのでしょうか。そのシンプルさが『ファウスト』を逆にいく通りもの解釈を呼んで、いくら模倣されても使い尽くされない作品にしたのだと、これを書きながら少し気付きました。
これを何でそうなるかと追求していくと、「元型」という概念に辿り着いて行きます。
--神話に見られる物語の法則を知りたい方はこちら--
河合隼男著『無意識の構造』(中公新書)
河合隼男著『昔話の深層』(講談社プラスアルファ文庫)
「コッツェブーやイフラントの戯曲は、モティーフがじつに豊かなので、すべてが使いつくされてしまうまでには、ずい分長いこと摘み取らねばならないだろう」p158
「(大部分の若い詩人に)欠けているものは、客観的なものの中に素材を見出すことができない。自分に似た素材、自分の主観に適した素材を、見つけだすのが関の山だ。しかし、詩的であれば、素材それ自体のために、たとえ主観に反していようと、その素材をとにかく手がけてみようなどとは毛頭考えないありさまだ」p158
(エッカーマン著/山下肇訳『ゲーテとの対話(上)』岩波文庫より)
これは既存作品のアイディアを拝借するときの心得のようなものです。
要するに、昔から伝わっている由緒正しい題材を使い古されたものだと敬遠しないで書いてみましょう、ということだと思います。作品においても人生においても経験の浅い若い人に欠けた素質らしいです。
「自分に似た素材」「自分の主観に適した素材」。これは要するに自分が書きやすいだけの趣味に偏った題材を探し求めていると、一見オリジナルに近道のようですが、結果的には何かの二番煎じのような作品しか出来上がらず、むしろ名作・ビッグネームの作品を臆せず扱うと、それは自分の作品の資本になるということです。