まずは最近話題の、宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)からの引用
「「大衆」とはいわば自分の努力のなさ、向上心の欠如、金銭を最高の価値としてあがめたてまつる拝金主義、他人の不幸を隠微に喜ぶ底意地の悪さ等々を棚上げして、ささやかな幸福に満足し、その価値観の下、自分に理解できないものを仮借なく排除し、或いは価値切り下げを断行し、才能を、或いはアウラを突出した人間から掠め取り、食い物にしその残骸を「お友達」感覚で賞味するという、恐ろしい生き物になっていた。」p64
「クラシックという「装置」をいわば一般化、大衆化、普遍化したカラヤンの音楽によって私たちは決定的に間違ってしまったのではないか?」p83
次に斎藤孝『座右のニーチェ』(光文社新書)からの引用
「今日本では、多くの人が自分にとって気持のいいものだけを受け入れ、不快なものは排除したがる。好きなものに囲まれる暮らしは適度に快適だが、表面的な快不快だけで判断すると、自分を脱皮させてくれるようなとてつもない美や価値観と出会うこともない。」p181
確かに、例えばピカソの名画「ゲルニカ」を観て、「分からない」の一言で済ませる人は多い。バロック、古典派、戦後の音楽に関心を持つ人は確実に少なくなり、作品に厳しさ、力強さ、逞しさを求めることは少なくなってきたのかもしれない。カフカの『城』も忍耐強く読み解く人はいないだろうし、ジョイスの畢生の名作『フィネガンズ・ウェイク』は手を着けられることすらないかもしれない。「楽しませてもらう」という受け身ではなく「こちらから読み解く」姿勢を持つ鑑賞者がどれだけいるだろう。
ともかく、バッハやパーセルの崇高な音楽に耳を傾けると、ルサンチマンなど自然に解消されるのではないだろうか。